2011年6月9日

日本での社会的期待となぜ私が日本に住むことができないか

【これはSocial Expectations in Japan and Why I Can't Ever Live in Japanの訳文の訳文です。】

Sakura-Conの期間中、Roland Kelts氏のお話をパネルディスカッションにおいて聞くことができた。氏によると、外国人が日本を訪れた場合、外国人は決して日本人として受けいられることがないが、日本にいることの恩恵を日本人としての(社会的な)期待をされることなしに味合うことができる。(外国人としてその期待に答えることは非常に高い評価がされることになる。)
日頃からその反対の立場を実感していたため、「外国人」サイドからこの意見を聞くのは非常に興味深かった。現在私は米国在住の米国人であるが、例え(米国から見た)外国人として見られたとしても、特にそれが差し支えることはない。なぜなら、多くの「米国人」は他の国出身であることが決して稀ではないからである。つまり、これが社会的に「通常」なのである。しかし、舞台が日本に移ると非常にやっかいになる。
私は日本に生まれ、13年間住んだ後米国に移住したため、ある程度の日本における社会的な規範を知る。その後18年間、米国に住んでいるため、日本に行くたびに違和感を覚えることになる。日本人的考え方を知っていたところでそれを納得して実践することは必ずしも本意ではないからである。日本語を操り、日本人に見え、外国人には見えない、そのため、日本語をしゃべれないフリ(したことはある)をしない限りは日本国内では日本人のように振る舞い、また、もっと重要なことに日本人のように「考える」ことが要求されるのである。
もともと社会的期待は日本人のように振舞い、考えることが前提になっているから、その努力は全く理解されない上、そこから少しでもそれるとネガティブな評価がされることになる。
米国において、外国人ぽく見えるのは普通の生活において問題はないが、これが日本に行くたびに外国人であればと、何回思ったことか。
今後、日本に住むことはこれからないだろうけど、日本に行くたびに、また日本人と接するたびに、この「アイデンティティー不安」に見舞われるわけで、その軽減策は一生の課題になるのではないかな、と思う。

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